最初にまず書かなければならないのは、ここでいう「天才」「秀才」にはどちらが上でどちらが下だというような意味はないという事である。
それを踏まえたうえで僕が「天才」「秀才」という言葉に持っているイメージと今回取り上げた二人のイメージを重ねたものをここに書いていく事を悪しからずご了承いただきたい。

犬神涼監督も小林十三監督もうんこ・おなら作品を多く手掛けているスカトロに強い監督です。それ以外の作品を撮ったり監督以外の活動をされていたりもしていますが、ここはぷりぷりうんこ村なのでここにおいては「スカトロ監督」としての二人を論じたいと思います。(文中敬称略)

 

犬神涼は天才である。

犬神は優しいささやきで女の子の羞恥心を煽るというスタイルを確立した。一見簡単そうに見えるこのささやきだが、これは犬神涼の持っている天才的なセンスなくしては成り立たない。
そのとき女の子が何を一番恥じているのかを瞬時に見抜きそれを的確に指摘して羞恥の淵へと確実に追い込むという手法は、犬神の持つ穏やかな雰囲気と優しい言葉使いで柔和なイメージを持ちがちだが、その切れ味は威圧的にしか女の子を支配できない者たちよりも数段鋭い。
確かに撮影の事前段階で段取りやシミュレーションなどは行っているだろうし、そもそも犬神自身がうんこ愛を持っているタイプの人間なのだから普段からこういったときにはこのような言葉を投げかけようといった引き出しをたくさん作って持っているに違いないが、実際の撮影時に女の子を目の前にして的確な言葉をその引き出しから取り出せるのはやはり天才のセンスがなせる業なのである。
事実、同じフォーマットで別の監督が撮った作品を見たことがあるが、やはり全くの別作品に仕上がっている。正直かなり物足りない。ただ、その監督も別作品では良い作品を撮っているのでそのフォーマットが犬神のセンスによって成り立っていたという事実がこれで立証されたことになるだろう。

では犬神の天才的センスとはいったいどういったものなのだろうか。
僕はそれをずば抜けた観察眼と共感性だと考える。
犬神は女の子を観察し共感していく事で女の子と同化するところまで感情を移入しているのではないだろうか。だからあの瞬間に女の子に投げかけている言葉はじつは女の子に同化した犬神があのシチュエーションで投げかけられて一番恥ずかしい言葉なんじゃないだろうか。犬神の掛けたたった一言や二言で女の子が羞恥で顔を真っ赤にさせるのは犬神が女の子の側に立った視点で物事を見ているからなんじゃないだろうか。とくに女の子の出す羞恥のシグナルを逃す事なくすべて拾えるのは撮影している側の犬神が同時に同じ羞恥を感じているからなんじゃないだろうか。僕はそう思うのである。

天才は常になにか新しいものへ興味を持つという性質があると思う。同じところには留まらない。いつもなにか楽しいことを探している。
レイディックス監督時代に輝かしい功績を残した犬神ではあるが、僕には事情は分からないがそこには留まらなかった。そしてその後もスカトロ作品を定期的に撮ってはいるが監督以外での活躍もしている。

でも天才はこれでいいのだと思う。

僕個人的にはレイディックス時代のガールズうんちシリーズのようなテイストの作品を撮り続けて欲しいという希望はあるが、天才気質の人間にこういった要望をするのはナンセンスだという事も分かっているつもりだ。犬神がもし人気バンドの天才プレイヤーだとしたら「せっかく今日のライブに来てくれたんだからその人たちだけに今日だけの特別なプレイを聞かせてあげよう!」というタイプなのだろう。もし人気レストランのシェフだとしたら「せっかくお店に来てくれたんだから今日だけの特別メニューでもてなしてあげよう!」というタイプなんだと。

最近犬神はV&Rプランニングでスカトロ作品も撮っている。
天才がまたスカトロに本腰を入れ始めたんじゃないかと僕は期待してやまない。
これからもずっと追いかけていきたい監督である。

 

 

小林十三は秀才である。

小林は継続する力の意味を深く理解している人間だ。歩みがたとえ小さくなる事があったとしてもそれで諦めたり投げ出すことなく愚直に進み続ける事ができるそんな人間だ。小林の作品からはそれが伝わってくる。女の子の小林を信頼しきった表情にそのすべてが表れている。その信頼を得るために小林がどれだけ弛まぬ努力と気遣いをし続けたかという事が女の子の小林を信頼しきった表情の中に透けて見えるのである。
小林はかなり前から活躍している監督で当時からマニア心のど真ん中を貫くようなシンプルかつストレートなうんこ・おなら作品を作っていた。また、その当時から排便音が蜜柑の皮を剥く時の音に似ているというような表現をするように、感性は天才的であったが今に至るまで進んできた道は不断の努力で突き進む秀才型であった。

小林作品の特徴といえば画面から伝わってくるほのぼのとした雰囲気であると僕は思う。いまから二十年くらい前の作品の話だが、その作品の中での小林も今と変わらず関西方面のイントネーションで軽快に女の子と会話をしていた。小林が撮ろうとしている作風は基本的に今も二十年前も大きくは変わらない。変わらないが画面から伝わってくる雰囲気は今のものと随分違っていた。いまほど迄にほのぼのとしていないのである。出演している女の子が違うのだからそれぞれに違っていても当たり前だし一概に比較はできないのも承知しているが、それでも今のようなふんわりほのぼのとした雰囲気にはなっていないのである。言う事を聞かない女の子に注意をしたりするシーンがサラッとではあるが収録されていたりもする。軽快な会話の中で本当にサラッと言っているだけなのでけっしてそのシーンで雰囲気が悪くなったりはしていないのだが、いまの小林作品と比べてしまうと女の子をコントロールしきれていない印象を持ってしまう。だがそれは二十年前の話である。いまの小林作品からは常にふんわりでほのぼのとした雰囲気が漂ってくる。

当時と今も作風は大きく変わっていないという事は小林は自身の作風を当時すでに完成させていたという事になる。それをトライ&エラーでブラッシュアップさせて今日の作風までピッカピカに磨き上げてきた。簡単に書いてしまったがこれはなかなかできる事ではない。でも小林はそれをやって遂げた。そんな秀才なのである。小林作品の特徴である作品中に漂うほのぼのとした雰囲気は、けっして偶然の産物などではなく小林の経験に裏打ちされたコントロール下に置かれた状況なのだ。

ではそのほのぼのとした雰囲気とはいったいどういったものなのだろうか。
僕はやはりそれを小林と女の子との深い信頼関係だと考える。
小林は時間をかけてしっかりと女の子との信頼関係を築き上げている。一本の作品に一年以上の時間をかけるという事は商業的にはきっとアウトなのだろうが時として小林にはそれができる。時間や労力など金銭的なもの以外も含めた採算を度外視して作品を作り上げることができるというのは、僕にはそれが小林がその子との信頼関係を一番に考えた結果なのだとしか考えられない。女の子も小林の気遣いと期待をしっかりと理解してそれに応えようとしている。これは協調と信頼が完全に出来上がっている証拠だ。本当に嫉妬するくらい精神的な部分で繋がっているのが透けて見えてくるときがある。しかし同じ子が何作も小林作品に出演し続けても作品からは慣れや所謂「なあなあ感」が見えてこない。これは小林自身の生真面目さとトライ&エラーで身につけていったスキルがなせる業なのだろう。

最初からここを目指していたのかは僕にはわからないが、現在作品から漂ってくるほのぼの感は小林の元来の生真面目さと色々な子とたくさん作品を地道に作り上げてきた事から得た「信頼関係を築く」というスキルが作り出したものである事は間違いないであろう。うんこやおならにそれほど興味がない子が「お金のために仕方がなく」でも「断れなくて我慢して」でもなく小林作品に出演し続けるのは、当然お金が発生しているとしても優先順位的にそれは一番という事ではなく「これをすると小林監督が喜んでくれる」という気持ちで出演しているとしか僕には思えない。

小林が人気バンドのプレイヤーだとしたら見に来ているキッズに対して「どうやって弾いてるか見たいの?だったらレコード通りに弾くからちゃんと見ていくんだよ♪」というタイプなんだと思う。もし人気レストランのシェフだとしたら「うちは二十年この料理で勝負していますので是非これをどうぞ!レシピ?全然教えてもいいですけれどきっとすぐには同じ味にはならないと思いますよ♪」というタイプなんだと。

今の僕には作品を買うという事でしか応援することはできないが
小林監督にはこれからも今の路線で丁寧な作品をずっと作り続けて欲しいと思う。

 

うんちまでもを再現する企業努力・・・僕は嫌いじゃありません( ・`д・´)